プロローグ ~「終活」への旅路~

【この項目は、勤めていた会社に対する愚痴、恨みで構成されています。自転車旅行とは何ら関係がありませんので、苦手な方は読み飛ばされることをお勧めします。】

 「やりたかった事 全部やりましたか?」

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『終活女子高生』(津々巳あや (著)、芳文社)1巻51ページより引用
 
         ◆

 「社会人」として過ごした1年5ヶ月は、私にとって、苦痛と屈辱にまみれた地獄の日々だった。
 私が働いていたのは、埼玉県内にある某司法書士事務所。従業員は100人を超える「全国で2番目の規模の司法書士事務所」(自称)、らしかった。
 求人は、ハローワークで見つけた。
 けれど、この会社に対するネット上の評判は、あまり芳しいものではなかった。
 長時間労働、低賃金、パワハラモラハラ……「転職会議」を見ても「2ちゃんねる」を見ても、その内容はブラック企業を思わせるものばかり。社風からして、到底自分に合うとは思えなかった。
 それでも応募したのは、とにかく面接に慣れる必要があると思ったから。
 親からは、就職活動についてプレッシャーをかけられていた。とにかく何でもいいから、就職活動をしているという実績を作っておく必要もあった。
 どうせ受かるはずがない、と高をくくっていた部分もあった。

 そうしたら……どういうわけか、内定をもらってしまった。

 不安な気持ちはあった。それでも最終的には、入社を了承した。
 こんな私にでも内定を出してくれた以上、どんなところだろうと取りあえずは頑張ってみよう――そう思ったからだった。

 だがそれは、地獄への扉だった。

 思えば、内定通知の段階から、おかしな部分はあった。
 内定の連絡は電話のみで、書面の交付もない。そして、雇用の条件の一つにあったのが、「試用期間中(3ヶ月)は残業代なし、各種保険への加入もなし」というものだった。
 これはおかしい、と直感した。
 調べてみて、その直感は確信に変わった。
 試用期間というのは法的には「解雇権を留保した労働契約」とされ、通常よりも広い範囲で解雇の自由が認められている以外は通常の労働契約と何ら変わりがない。そのため、正社員としての継続雇用を前提としたフルタイム勤務である限り、試用期間中であろうと社会保険の適用上は正社員と同じ扱いを受けなければならないはずである。
 この点については、ハローワークにも確認した。
 しかし、ハローワークの側から会社に対する指導はできない、と言われた。
 なぜなら、ハローワークで募集していた職種と、私が実際に採用された職種とが異なっていたから。私は「司法書士の補助者」の求人に申し込み、「土地家屋調査士の補助者」として採用されていたのだった。
 ハローワークからは、「やんわりと指摘してはどうか」と言われた。
 私は家族に相談した。
 家族(主に父)からは、「今もめ事を起こすのは得策でない、黙っていたほうがいい」と言われた。
 結局私は、黙っている道を選んだ。この判断が正しかったのか、今でも分からない。
 そして思った。会社が内定通知書の書面での交付を渋ったのは、「試用期間中にもかかわらず社会保険に加入していない」ことの証拠を残さないためだったのではないかと……。

 ともあれ私は、2015年2月1日付で、その会社に入社した。
 10年近く続けてきたアルバイトは、前日付けで辞めた。最後の出勤日にはアルバイト先の方々から就職祝いや寄せ書きを貰ったりと、思わずホロリとしてしまいそうになった。


 そして程なくして、私は入社を後悔することになる。

 最初の「事件」が起こったのは、忘れもしない入社2日目。調査士部門のトップであるA氏(通称ハゲ)が、何人もの部下を次々に呼びつけては激しい口調で怒鳴りまくっている場面を目の当たりにしたことだった。それはもう、事務所全体に響き渡るほどの大声で――
 このとき特に激しく怒鳴られていたのが、パートで来ていたYさんだったと私は記憶している。おそらくは書類の内容に何かミスがあったのだろうが……それにしても、あそこまで怒鳴りつける必要はあったのか? 仕事上怒らなければならない場面があるのはやむをえないとしても、それは本来、よりよい仕事をしてもらうための前向きなメッセージを伴わなければならないはず。もちろん、怒る相手のタイプによっても、対応を変える必要があるはずだ。しかしながらA氏の言動は、誰彼構わず怒りをぶつけている(それも一番立場の弱い相手に対して!)ような感じ。あんな怒り方をしては、仕事に対するモチベーションを下げるだけではないのか?
 このあとYさんは席を外し、そしてしばらく戻ってこなかったことが、強く印象に残っている。

 同じ時期、隣の部署(司法書士部門)のとある課のトップであるI氏(無資格!)もまた、特定の部下をターゲットにしてほとんど連日、長時間にわたって大声で罵声を浴びせ続けていた。来る日も、来る日も……。それは指導という枠を逸脱して、完全にイジメのように思われた。
 そして、このような場面を目にしながら、誰もI氏を止めようとしない。I氏は社内ではかなりの長老で社長にも近く、誰も手を出せないような雰囲気だった。

 では、社長はこうした状況を憂慮していたのかといえば、そんなことは全くない。むしろ社長こそがラスボス、パワハラ王国の帝王といった感じで、しょっちゅう部下を呼びつけては大声を張り上げて罵声を浴びせ続けていた。

 労働時間もかなりの長時間に及んでいた。入社後数日間は比較的早く(それでも夜7時、8時くらいまでは残らされていたのだが。残業代なしで)帰れていたが、程なくして深夜まで当たり前のように残業を求められるようになっていった。週休2日は完全に有名無実。長時間休まず働くことが美徳という風潮が、会社上層部の間に蔓延していた。ある上司は「俺は毎週金曜日に徹夜していた」などと自慢げに語っていた。徹夜続きで泡を吹いて失神したという人の話が、武勇伝のように語り継がれていた。
 そんな上司だから、部下を休ませようという発想もまるでない。
 ワーク・ライフ・バランスとはまるで無縁の、人生の時間の全てを仕事に捧げさせるような世界。

 極めつけは、そんなブラックな環境を疑問にも思わせないようにする、従業員に対する洗脳研修だった。
 「研修」という名こそついているが、業務に必要な知識などを身につけるための研修ではない。ひたすら大声を出す練習をさせられ、スローガンのようなものを暗記して制限時間内に絶叫させられたり、不気味な研修歌を歌わせられた。
 研修というより、軍事教練。
 まるで拷問だった。
 ♪仕事が~できて~、人生の幸せ~ などというフレーズが出てきたときには、思わず「ふざけんなバカ」という言葉が喉元まで出かかった。
 仕事が「人生の幸せ」だって? 冗談じゃねえよ。
 従業員を組織に対して従順な奴隷に仕立て上げようという意志が露骨で、通常であればこんな洗脳に引っかかる人は少ないのではないかと思う。しかし拷問のような訓練で疲弊している状況の下、全員が同じことをさせられ、誰もこのようなやり方に対して異を唱えられないような環境下では、感化されてしまう人もいるのではないか。私は常に「気をしっかり持て。飲み込まれるな。洗脳されるな」と自分に言い聞かせ続けた。
 もしかしたら、洗脳されてしまったほうが楽なのかもしれないけれど、でも。
 少なくとも、こんな環境で仕事をすることは、決して「人生の幸せ」ではない。


研修歌(洗脳テープ)


洗脳された社畜たち


偉大なる仕事様、マンセー!!
※上記画像は全てイメージです。

 そんな職場環境のためか、離職率も極めて高いようだった。

 従業員は大多数が入社後数ヶ月~数年の人で、あとは一握りの幹部社員のみ。中堅層というものが存在せず、毎月のように人が入っては辞め、入っては辞めを繰り返していた。1年で従業員の半分くらいが入れ替わっていたように思われた。

 そうだ、そんな会社だからこそ、私でも採用されたのだ。
 およそ社風に会わない人間でも採らざるを得ないほどに、人が不足していたのだ。

 入社後半年経った頃には、私は「もう辞めたい」との思いを強く抱くようになっていた。

 でも、辞められなかった。
 短期間で辞めることに対する世間の目は、驚くほど冷たい。
 それに、転職先を見つける自信もなかった。
 だから、仕事は給料のためと割り切って続けるほかなかった。
 とはいえ、給料も決して良くはなかった。基本給は14万円で、それに各種手当を加えてようやく月額18万円。最初から長時間残業をさせることを前提に、基本給がかなり安く抑えられていた。一応残業代は支払われていたが、基本給を基準に残業代が計算されるから、時給に換算すれば950円程度に過ぎなかった。もちろんそこから、税金や各種保険料は差し引かれる……。
 学生のバイト代と同レベルの給料で責任ばかり負わされ、毎日ガミガミ怒鳴られながら長時間働かされる……いくら正社員の身分と健康保険証が貰えるとはいえ、これでは到底、割に合わない。

 救いがあるとすれば、それは私の担当していた仕事が、日中は一人で現場回りをする仕事だったという点だろう。
 どんなに職場や上司が嫌でも、少なくとも現場に出ている間はそこから解放される。それに旅好きな私にとって、仕事とはいえ色々な場所に出かけることができるのは、楽しくもあった。

 だが12月になると、そんな救いも崩壊した。

 11月下旬。調査士部門の従業員が集められた席で、私は、12月から事務所内での書類作成の仕事をするよう言い渡された。パートのYさんが11月で退職するとかで、今までYさんがやっていた仕事が私に回ってきたのだった。
 ある上司は、この体制について「適材適所だ」と言った。
 しかし、こう付け加えることも忘れなかった。
「今までパートがやってきた仕事だぞ。お前がそれ以上の結果を出せなかったら……」
 事実上の、リストラ予備軍入りだった。

 今までは、地獄の中にもまだ救いが多少はあった。しかし救いが失われた結果、本当の意味での地獄が訪れたのだった。
 毎日毎日、制限時間を決められながらひたすら書類作成に追われ、息抜きをする暇もない。しかもどんなに案件が溜まっていようと、容赦なく電話がかかってくる。相手がこちらの理解できるように話してくれるとは限らない。いきなり用件を言われたり、想定外のことを聞かれるとパニックに陥る。何とか答えようとすれば勝手にやるなと怒られ、担当者に繋ごうとすれば丸投げするなとまた怒られる……ただでさえコミュニケーションの苦手な私にとって、電話対応による消耗は凄まじかった。やっとの思いで電話を切ると、もう今までやっていた仕事の、何をどこまでやったのかを思い出せない。どうにかしてペースを取り戻した頃にまた電話。作業が一向に進まない、そして仕事が遅い、遅いと毎日のように怒鳴られる、ミスが見つかればまた怒鳴られる……。
 何が「適材適所」だよ!
 心底、疲弊していた。

 そして、まさにこの頃からだ。私に「うつ」の症状が現れ始めたのは……。

 これまでは若干の例外はあったものの、朝食をしっかり摂ってから出勤していた。ところが12月頃から、朝の起床を苦痛に感じるようになっていった。これ以上寝ていたら遅刻する――そんなギリギリの時間まで起きられず、やっとの思いで起きたら大急ぎで着替えだけして家を出る。そんな生活が続くようになった。
 寒いせいだと、最初は思っていた。でも暖かくなっても朝起きられないのは変わらず、むしろどんどん悪化しているように思われた。
 出社が苦痛だった。今日は何を言われるんだろう、どんな電話がかかってくるんだろう……気が沈み、電車の中でも立っているのがしんどいと感じるようになった。
 床にうずくまることもあった。
 電車が会社の最寄り駅に近づくにつれ、憂鬱感はより深くなる。このまま遠くに行ってしまいたい、もう消えてしまいたい……そんな風に、幾度も思った。
 会社の存在を呪った。今ここで大地震が起きて、会社も何もかも潰れてしまえばいいと思った。
 毎晩のように、酒を飲むようになった。酒を飲む習慣のなかった私が、毎晩。
 お菓子を大量に買い込んでは、ドカ食いを繰り返すようになった。お腹がパンパンになるまでお菓子を食べ続け、苦しくなると喉に指を突っ込んで吐いた。何度も、何度も。

 こんな状況でも、私は誰にも相談することができなかった。苦しみを訴えることができなかった。

 ある時期から、私は自分の「死」について、ぼんやりと意識するようになった。

 あえて言えば、仕事は給料を貰うためにすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。
 でも、こんなに苦しみながら仕事を続けることに、一体何の意味があるのだろう?
 生きていたって、起きている時間はほとんど仕事のために費やされる。
 たまの休みだって、疲れ切ってほとんど一日中寝て過ごすだけ。
 自分のやりたいことが、何一つできない。
 一体自分は、何のために働いているのだろう?
 一体自分は、何のために生きているのだろう?

 こんな毎日が続くくらいなら……もう死んだって一緒じゃないか?

 「やりたかった事、全部やりましたか?」

 ――そんな私の脳裏に、誰かの声が響く。

 そんなことはない。やりたいことは、まだたくさんある。
 旅したい。遠くに行きたい。
 列車にだって乗りたい。また自転車で走りたい。
 北海道、紀伊、中国、四国、九州、沖縄。まだ自転車で行ったことのない場所がたくさんある。
 どうせ死ぬんだったら、やりたい事を全部やってから死にたい。
 そうだ。仕事を辞めたら、また自転車で旅をしよう。
 最初に行くのは、やっぱり北海道かな。とすると大洗から苫小牧までフェリーに乗って、着くのは昼過ぎだから、その日は札幌か室蘭まで走って……。
 いつしか私は、会社を辞めた後の自転車旅行計画を立てていた。
 それは私にとって、命をこの世に繋ぎとめる、いわば「命綱」だった。

 2016年2月。私は、とある心療内科を受診した。
 診断名は「不安、抑うつ状態」。

 休職を勧められた。診断書も書いてもらった。
 でも、休むことはできなかった。休職を申し出る度胸もなかった。
 何しろ年度末は、年間最大の繁忙期。私のような屑でも、抜ければ業務に支障が出ることは目に見えていた。
 仕事は辞めていいから転職活動を始めろ、と父は言った。
 それは、次の仕事を見つけるまで辞めることは許さない、と言っているのと同じだった。

 寝不足が続いた。毎日のように頭痛がした。手が震えた。
 初めて交通事故を起こした。自損事故だったのが、せめてもの救いだった。
 3月は自殺対策強化月間だった。特設サイトを何度も見返した。
 鉄道カメラマンになった人の話が載っていた。私もこんな風になりたいと思った。

          ◆

 年度末も押し迫った3月30日、私は突然、社長に呼び出された。

 そして、4月1日からの経理課への移動を命ぜられた。

 経理と聞いて、私は嫌な予感がした。
 何しろ経理は、「2ちゃんねる」上で上司の名前(一部伏せ字になっていたが、見る人が見れば誰のことかは一発でわかる)を挙げて「超絶ブラック」「いじめマジ酷い」「陰険」と書き込みをしている人がいたからだ。
 でも、NOと言うことはできない。この会社で、社長の言うことは絶対だからだ。

 その経理課のO氏は、最初は仕事を丁寧に教えてくれる人のように思えた。
 でもそれは、最初の1週間だけだった。
 2週目に入ると、O氏は突如として豹変した。
 発端は、忘れもしない。ある仕事について進め方を確認するために、「○○は△△という風に処理すれば大丈夫ですか?」と質問したときのことだった。
 O氏は突如として目じりを吊り上げ、言い放った。

「前に説明しましたよね? 何で人の話聞いてないんですか?」

 いや、説明されたことは分かっている。でも一人で処理するのは初めてだったから、間違いのないように念のため確認しただけだ。それを何で「人の話を聞いていない」呼ばわりされなければいけないんだ? それとも、一度説明しただけで全てを完璧に把握しろと言うのか? そんな無茶な!
 この日から、私の経理課での受難の日々が始まった。
 とにかく、質問をしても嫌味しか言わない。聞いたことに対しては一言二言しか答えないくせに、ネチネチと嫌味を繰り返すことは常に忘れない。ミスをすれば執拗に責め立て、人間的欠陥の現れで あるかのように人格攻撃を繰り返す。言っていないことも言った、言ったと強弁、あくまで私が人の話を聞いていないせいにする。こちらがどんなに抗議しても、意味不明な理屈を持ち出して自分を正当化し、挙句の果てに「日本語を勉強し直せ」などと言い放つ。指示していないことをすれば「言われたこと以外やるな」と言い、逆に言われたこと以外やらなければ「そのくらい気を回せ」開き直る。ミスが見つかった書類は無言で投げつける。他の人に指示を出すときさえ、「椎名さんは仕事が遅くて次の作業に進めないので」「椎名さんはミスが多すぎるので」などとわざわざ聞こえよがしに嫌味を言う……
 モラハラを体現したような、絵に描いたような「クラッシャー上司」だった。

 このような言われ方を繰り返されて、意欲を削ぎ落とされこそすれ、やる気が出るような部下がいるとは思えない。部下を育てようという気が全く感じられない。このような上司ならば、極力関わりたくない、コミュニケーションは必要最小限にしようと考えるのが通常だろう。けれどO氏は、それで自分を避けることすら攻撃材料にする。
 「2ちゃんねる」には「あいつ(O氏)のせいで何人辞めたと思ってるんだよ」、「転職会議」には「心が折れて短期間で辞める人もいた」と書き込みがあった。
 全くもって、その通りだった。
 あの言動を見れば、部下を何人も潰してきたという話も納得だった。

 そして私も、いよいよ限界が近づいていた。

 ある日、私はついに会社を休んだ。
 張りつめていた糸が、何かプッツリと切れた気がした。
 今まで苦痛に耐えながら無理をして無遅刻無欠勤を続けてきたけれど、崩れ落ちる瞬間は余りにもあっけなかった。

 それでもこの時は、2日間休んだあとで会社に復帰した。

 すると今度は、社長に呼び出された。
「迷惑だ」「健康管理がなってない」「社会人の常識ができていない」……欠勤したことに対して、強い調子で怒られた。そして「お前のやってることは工場労働者と一緒だ」(随分と、工場労働者をバカにした話である)「嫌なら辞表を出せ」……。
 体調を崩したのはお前らのせいだろ! 言ってやりたかったが、言わなかった。
 O氏からは、「インフルエンザにでもかかったのでない限り休んではいけない、それが社会人の常識だ」という意味のことを言われた。

 もう、めちゃくちゃだった。

 その後も、O氏による嫌味攻撃、人格攻撃は続いた。

 ある日、私はナンバリングの打ち間違いをした。インクをしみ込ませた布のようなもの(インクパッド?)の取り付け方が分からず、無理に取り付けようとして数字が回ってしまったことが原因だった。
 確かに、やり方が分からなければO氏に聞くべきだったのかもしれない。しかし迂闊に質問したらまた何を言われるかわからない……何とか自己解決をしようとした結果の失敗だった。
 O氏は「こんなミスをする人は今まで見たことがありません。何をどうやったらこんなミスができるんですか?」「分からなかったら何で聞かないんですか?」と言った。
 そして、自分で数字を直し始める。しかし、インクパッドの付け方、数字の直し方については全く説明しようとしない。質問しようにも、質問できる雰囲気ではなかった。これで今度同じような事態に直面したら、またぞろ「前に説明しましたよね? 何で人の話を聞いてないんですか?」とか言われるのだろうか……。

 昼休みと同時に、私は事務所を飛び出した。
 10分くらい歩いて駅近くの雑居ビルまで行き、そこから実家に電話した。

 電話に出た母に、「もう限界。辞めたい」と告げた。

 今まで反対していた父も、ついに了承した。

 インクパッドの付け方、数字の直し方は、後でネットで調べた。

          ◆

 退職時期は、一旦は7月末日と決まった。就業規則に則れば、この日が退職日になる。
 会社側からは、6月末日で辞めてもいいと言われた。けれどそこに何となく、厄介な社員をさっさと追い出したいという意図を感じた。意地もあり、私はこのとき、1ヵ月分の給料を確保する道を選んだ。
 私が辞めると宣言したことで、O氏の攻撃も一旦は落ち着くかに見えた。けれど、それは錯覚だった。
 程なくして、O氏は再び、私に対する攻撃を繰り返すようになった。
 私は、7月末まで続けると言ったことを後悔した。でも、もともと7月末日まで働くと言ったのは自分自身だった。目先の給料に目が眩んでの、まさに自業自得。やり場のない怒りに、私は呻き続けた。
 6月末で辞めさせてほしい、と会社に申し出たことはあった。返答は、色よいものではなかった。この件もまた、O氏の攻撃材料となった。

 そして、6月20日、月曜日。

 目が覚めると、午前4時だった。自宅を出るタイムリミットは7時15分。あと3時間あることに、ひとまずは安心する。しかし、5時、6時、6時半……と時間が進むにつれ、次第に焦りが強まってくる。タイムリミットまで、時間が迫ってくる。起きないといけない、でも起きられない……でも時計は刻々と進んでいく。どうしよう、もう嫌だ、でも起きなきゃ……
 7時5分。「おい、地獄さ行(え)ぐんだで!」という叫びとともに、私は最後の気力を振り絞って起き上がる。
 その瞬間、立ちくらみを覚えた。
 頭の中身がぐるぐる回転するような感覚に、私は再び、布団に倒れこんだ。

 その日から2日間、私は再び会社を休んだ。
 火曜日には、再び心療内科(2月の病院とは別の所)を受診した。
 診断名は、「適応障害」。診断書も書いてもらった。
 水曜日。さすがにもう休めないと思った私は、何とか電車に乗り、会社の入っているビルの近くまではやってきた。
 でも、そこから先に、どうしても進めなかった。
 私は再び、家に帰ってしまった。
 結局その週は、丸々会社を会社を休んだ。

 翌週の月曜日。
 私はある覚悟を胸に、会社に向かった。それは、医師の診断書を示し、休職させてほしいと申し出ること。6月末で辞められないなら、せめて残った日数は休職という扱いにしてほしいと言うつもりだった。
 意を決して総務課に電話をかけ、今まで休んでしまったことに対する謝罪と、今後のことについて相談させてほしいと告げる。総務からは、××という場所に来てほしいと告げられた。

 その場で、私の退職手続がとられた。会社側が、6月いっぱいでの退職を認めたからだった。
 厄介な社員をさっさと追い出したいという会社側の本音は相変わらず見え隠れしたが、ともかく私は、6月末日付けで仕事を辞め、晴れて(?)「無職」の称号を手にすることになった。
 長い、長い道のりだった。

          ◇

 仕事を始めたら、もう自分がやりたいことはできなくなる――
 私がこの一年半で学んだ、嘘偽らざる実感と本音だった。
 おかしい、とは思う。学生のうちにやりたいことをやろうとすれば「親のスネをかじって」云々と非難されるのに、いざ仕事を始めると、今度は仕事に時間をとられて自分のやりたいことが全くできなくなる。
 どうしてこんな、「仕事のために生かされる」ような状況がまかり通っているのだろうか?
 それとも、「人生の目標は仕事によって達成されるべきものだから、何もおかしいところはない」とでも言うつもりなのだろうか?

 思えば学校教育の段階から、日本人は洗脳されすぎていた。
 子供の頃によく考えさせられた、「将来の夢」。
 「将来の夢=将来就きたい職業」、という等式が、暗黙の前提とされていた。
 「やりたい事=仕事」ならば、使用者にとってこれ以上都合のいいことはない。労働者を低賃金で休みなく酷使しようと、文句を言われる筋合いはないからだ。
 そもそも、明治以来の公教育制度そのものが、国家や資本家にとって都合のよい国民を大量生産するために仕組まれていた。
 個々人の個性などは、労働者の管理にとって邪魔なもの。だから全員が集団で統率の取れた行動を取れるよう日々訓練され(「気をつけ、前ならえ、休め」などが典型である)、その枠からはみ出した人間は、ナントカ障害のレッテルを貼られて排除されていく。
 排除された人間に対して待っているのは、「自己責任」という冷たいバッシングだ。
 本来は人それぞれ、得意な分野、苦手な分野があって当然。明るい人がいればおとなしい人だっているし、大勢で騒ぐことが好きな人がいれば、一人静かに過ごすことを好む人だっている。それはどちらが優れていて、どちらが劣っているといった話ではないはずだ。
 ところが現実には、世の中は「コミュニケーション能力至上主義」に覆い尽くされているといってよい。明るく積極的で社交的であることが善とされ、反対におとなしかったり一人でいたりすれば、「コミュ障」のレッテルを貼られ矯正ないし排除の対象とされる……

 閑話休題。
 私は、仕事を始めたら自分のやりたい事ができなくなるような労働環境と、それを「社会人の常識」というフレーズで正当化している世の中は異常だと思っている。そうした現状は、社会の世代交代が進まない限り(あるいは、進んだとしても)、容易に解決される問題とも思えない。
 だから、少なくとも現状では、よく言われる「学生のうちに遊んでおけ」という意見は、残念ながら正しいといわざるを得ない。就職してしまったら、もう思うように時間は取れなくなる。だから今のうちに、やりたい事をやり尽くせ――。
 だが……ここで、ふと気がつく。

 これって、「終活」とほとんど同じじゃないのか?

 2016年1月7日に発売された4コマコミック『終活女子高生』第1巻(津々巳あや (著)、芳文社)は、自称「余命いくばく」の女子高生が、一方的に「ズッ友」認定した相方を振り回しながら終活に勤しむという内容のギャグ漫画であるが、作中では終活のテーマの一つとして「やりたい事をやり尽くす」という点が示されている。

 「就活」と「終活」が、紙一重――

 これが、日本の世の中の現実なのだ。

 仕事に就けば、確かに収入と一定の社会的身分は得られるが、その代償として自由を差し出さなければならなくなる。仕事に就かなければ自由は得られるが、収入は得られず、「ひきこもり」「ニート」などといった烙印を押され叩かれる。そして今の日本の世の中は、どちらか両極端の選択肢しかなく、「ワーク・ライフ・バランス」は完全に掛け声倒れに終わっている。

 だったら、せめて「終活」をしようと思った。

 就職しない、という選択肢は、事実上無きに等しい。もちろん、私のような人間は、そもそも職にありつく事が難しいのだけれど。でも、どうせ死ぬのなら、その前にやりたい事をやり尽くしたい。

 だから、今こそ自転車で北海道を走ろう。
 次はいつ訪れるかもわからない休みを、最大限満喫するために。
 後悔だけは、しないように。
 さあ、北の大地へ――
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